平和への祈り・Connecting the dots 2
「平和への祈り・Conecting the dots1」から続く。
まだお読みでないか方は、ぜひ「平和への祈り・Connecting the dots1」からお読みください。
2015年10月に突如として降って湧いたパシフィックパートナーシップ日本主管国での参加・・・・・担当者として難問を突き付けれていました。
何の手術をパラオで提供すればいいのか。
どんな医療企画を立てるべきか。
正解のない問題を解くこと。
「できません」とは言えません。
本音を言えば、つまらない企画を出して「面白くない」と言われたくもありませんでした。プレッシャーは確かにありました。
しかし私はそれを、「自分にしかできない仕事だ」「これがもしかすると自衛隊で与えていただいた最後の大きな国際的任務かもしれない」と受け止めていました。
この企画そのものを、自分の人生の一部として楽しんでいたのかもしれません。
当時私は横浜の磯子に住んでいました。統合幕僚監部の朝は早いです。朝は磯子駅始発4時20分に乗ります。電車の中で毎日、考え続けました。考えると寝てしまいます。
シンガポールでの米軍との調整会議まで、残された時間は多くありません。(シンガポールには米海軍の補給基地があります。ここで初回の会議が予定されていました。その後の最終会議はサンディエゴで予定されていました。)
そのとき、ふと過去の記憶がよみがえりました。(パシフィック・パートナーシップに参加したときの経験です。)
島嶼部で最も喜ばれる医療支援の一つ。それが、老眼鏡の無償提供でした。
日本ではあまり知られていませんが、東南アジアや南太平洋では、老眼によって日常生活に支障をきたしている方が多くいらっしゃいます。
そもそも、老眼鏡そのものが手に入らないのです。人道支援と聞くと、「国境なき医師団」に代表されるような緊急医療を思い浮かべるかもしれません。確かに医療には「今この瞬間の命」や「urgent」が求められる場合がクローズアップされますが、その時間は瞬間で限られています。
「urgent」を乗り越えた後に必要なのは、日常を取り戻すことです。
体を動かせること。
目が見えること。
文字が読めること。
耳が聞こえること。
噛めること。
食事ができること。
米軍は、戦闘地域以外での人道支援活動において、ほぼ必ず老眼鏡を無償提供しています。
歯は自分でやれる。では、老眼鏡はどうする。
私はそう考えました。歯科医である私には歯科医の知人が多く、歯科医療材料も何とかなるかもしれません。
しかし、老眼鏡には伝手がありません。
眼鏡といえば、眼科の先生か。JINSに突撃してみるか。誰か助けてくれないだろうか。そんなことを毎日考え続けていたとき、ふと一人の顔が浮かびました。
芝中学・高校の同級生、眼科医の大橋君です。

中学2年F組のクラスメートで、物静かでとても優しい人物です。久しぶりに大橋君に会い事情を説明して相談すると、一人の医師を紹介してくれました。
茨城県水戸市の小沢眼科内科病院、小沢忠彦先生でした。

私はすぐにメールを送り、面会をお願いしました。小沢先生は快く応じてくださいました。
藁にもすがる思いで水戸を訪ねました。
初対面の私に、小沢先生は真摯に向き合ってくださいました。
南太平洋での眼科人道支援活動を記録した映像を見せていただき、ご自身のNPO活動についても、「白内障手術の無償提供」を含め丁寧にご説明くださいました。
本物の人道支援だと、私は確信しました。
そして私は、防衛省自衛隊として考えているミッションをお伝えしました。話を聞き終えると、小沢先生は間を置かずにおっしゃいました。
「分かりました」
「眼科用検診車を輸送艦に載せてパラオへ送りませんか」
「検診を行い、その場で合う眼鏡を無償で渡しましょう」
「眼鏡は何とかなります。白内障手術もやりましょう」
そして、静かにこう続けられました。「ペリリュー島は、水戸の連隊が玉砕した島です。水戸の人間として、ぜひやらせてください」

「……」私は思わず言葉を失いました。
——ばらばらだった点が、静かにつながり始めた気がしました。もしかしたらできるかもしれない!水戸から特急「ときわ」で市ヶ谷へ戻りました。

「ときわ」は、かつてインド洋給油作戦で私が乗艦した補給艦の名でもあります。

不思議と、背中を押されたような気がしました。市ヶ谷A棟のオフィスに戻ると、私は上司に報告しました。
「水戸の眼科医である小沢先生とお話ししてまいりました。さまざまなご提案をいただきましたが、その中でも、眼科用検診車を輸送艦に搭載しパラオに揚陸し島内で住民に眼科検診を提供すること、また輸送艦の艦内で白内障手術を実施することについて、計画を進めたいと考えております」
上司は間髪入れずに答えました。「よし。責任は俺が持つ。やってくれ」このような言葉を、迷いなく口にできる上司に出会える機会は多くありません。
防衛省に棲息する官僚医官ではなく、本当の意味での統幕軍医もといJ4衛生官でした。
私はJ1防衛班、J3運用班の仲間たちとともに横須賀で米軍との調整を行いました。日本企画を認めて貰わなければなりません。


このときの私は、まだ気づいていませんでした。この小さな出来事が、いくつもの点をゆっくりと結び始めていたことに。米軍に提示できる材料が、ようやく整いました。パラオに持っていけるものが、ようやくできたのです。初めての日本主導企画の提案、ネタがなければ、相手にしてもらえません。米軍から了解がもらえれば次はパラオと直接の交渉になります。2016年が明けました。(つづく)

